祇園祭 山鉾その3

[17番]鶏鉾
鶏鉾 鶏鉾
[室町通四条下ル]
中国の史話より取材。
昔、唐堯の時代に天下がよく治まり訴訟用の太鼓(諌鼓)も用がなく苔が生え鶏が宿ったという故事によって、その心を映したものという。
鉾頭の三角形の中の円形は鶏卵が諌鼓の中にある意味で、鶏鉾の名の象徴となっているともいわれるが、はっきりしたことは不明である。
真木のなかほどの「天王座」には航海の神といわれる住吉明神を祀る。

[18番]伯楽天山
伯楽天山 伯楽天山
[室町通綾小路下ル]
唐の詩人白楽天が道林禅師に仏法の大意を問うところである。
道林禅師は、緞子地の紫衣を着け、藍色羅紗の帽子をかぶり、手に数珠と払子を持ち松の枝の上に座し、白楽天は唐織白地狩衣の衣裳に唐冠をかぶり笏を持って立っている。

[19番]山伏山
山伏山 山伏山
[室町通蛸薬師下ル]
この名は山に飾る御神体が山伏の姿をしているのでこう呼ばれている。
昔八坂の法観寺の塔が傾いたとき法力によってそれをなおしたという浄蔵貴所の大峯入りの姿をあらわしている。
左手に刺高数珠、右手には斧を持ち腰には法螺貝をつけている。
山伏山 ご神体 山伏山 装飾品
↑コレはご神体と装飾品です

[20番]保昌山
保昌山
[東洞院通松原上ル]
丹後守平井保昌と和泉式部の恋物語に取材。
保昌が式部のために紫宸殿の紅梅を手折ってくる姿をあらわしている。
御神体は緋縅の鎧に太刀をつけ、梨地蒔絵の台に紅梅をいっぱいにもってこれをささげている。
故事にちなみ「縁結び」の御守りが授与される。

[21番]放下鉾
放下鉾 放下鉾
[新町通四条上ル]
鉾の名は真木のなかほどの「天王座」に放下僧の像を祀るのに由来する。
鉾頭は日・月・星三光が下界を照らす形を示し、その型が州浜に似ているので別名「すはま鉾」とも呼ばれる。
かつては長刀鉾と同様「生稚児」であったが昭和4年以降稚児人形にかえられている。
稚児人形は久邇宮多嘉王殿下より三光丸と命名せられ巡行の折りには稚児と同様、鉾の上で稚児舞いができるように作られている。
この鉾は明治の中期に胴組、天井、柱、屋根などが大改装され、金具類も順次整備された。

[22番]岩戸山
岩戸山 岩戸山
[新町通仏光寺下ル]
天岩戸を開いて天照大神の出現される日本神話から取材している。
山とはいえ室町時代狩野永徳の洛中外図屏風でみられる岩戸山にはすでに車輪が描かれており鉾と同じ車をつけた曳山である。
曳山で、鉾柱のかわりに屋上に真松を立てている。
三体の御神体を飾るが、天照大神は白衣裳で胸に鏡をかけ、脇に安置される手力雄尊(戸隠大明神)は白衣に唐冠をかむり、屋根の上には太刀をはき天瓊矛をつき出した伊弉諾尊を安置している。

[23番]船鉾
船鉾 船鉾
[新町通綾小路下ル]
神功皇后をめぐる伝説によって鉾全体を船の形にし、舳先には金色の鷁、艫には黒漆塗螺鈿の飛龍文の舵をつけ、船端には朱漆塗の高欄をめぐらし、唐破風入母屋作りの屋根からは紅白の長旒・吹流しをひるがえす。
鉾の上には皇后と陪従する磯良・住吉・鹿島の三神像を安置する。
主神神功皇后は神面をつけ緋縅の軍装、その後に鹿島明神、舳先には海神安曇磯良が離宮の満干珠を住吉明神に捧げている。
皇后の神面(文安年間作、1444~1448)は古来安産に奇瑞があるといわれ、宮中でも尊敬され、明治天皇の後降誕の時には宮中へ参内している。
皇后の神像は岩田帯をたくさん巻いて巡行するが、それを祭の後、妊婦に授与され安産の御守りとされている。

[24番]橋弁慶山
橋弁慶山
[蛸薬師通室町東入]
謡曲「橋弁慶」より取材、弁慶と牛若丸が五条の大橋で戦う姿をあらわしている。
弁慶は鎧姿に大長刀を斜めにかまえ、牛若丸は橋の欄干の擬宝珠の上に足駄で立ち片足を曲げ右手に太刀を持っている。
橋は黒漆塗で特に牛若丸の人形は足駄金具一本でこれを支えている。
橋弁慶山 ご神体 橋弁慶山 装飾品

→その4へ