祇園祭 山鉾その4

[25番]北観音山
北観音山 北観音山 胴懸
[新町通六角下ル]
上り観音山」ともいわれ、後祭の山鉾巡行の先頭をいく。
文和2年(1353)創建であることが町有古文書に記され、山舞台には楊柳観音像と韋駄天立像を安置する曳山で、飾屋根を付けたのは天保4年(1833)のことである。

[26番]鈴鹿山
鈴鹿山 鈴鹿山
[烏丸通三条上ル]
鈴鹿権現をまつる。
伊勢国鈴鹿山で道ゆく人々を苦しめた悪鬼を退治した鈴鹿権現(瀬織津姫尊)を金の烏帽子をかぶり手に大長刀を持つ女人の姿であらわしている。
後の山には赤熊で象徴した悪鬼の首が置かれている。
山に立つ松には鳥居・松・木立と宝珠を描いた絵馬がつけられるのも珍しく巡行後に盗難除けの護符として授与される。

[27番]浄妙山
浄妙山 浄妙山
[六角通烏丸西入]
平家物語の宇治川の合戦から取材
治承4年(1180)宇治川の合戦に三井寺の僧兵筒井浄妙が橋桁を渡り一番乗りをしようとすると、一来法師がその頭上を飛び越え、「悪しゅう候、御免あれ」と前に進み出て先陣をとってしまったという。
御神体は一来法師が浄妙の頭上を飛び越える一瞬をとらえ木片の楔で一来法師の人形を支えている。
黒漆塗の橋桁にも数本の矢がささり戦さのすごさを示している。
かつては「悪しゅう候山」とも呼ばれていた。

[28番]黒主山
黒主山 黒主山
[室町通三条下ル]
謡曲「志賀」にちなみ大伴黒主が桜の花をあおぎながめている姿をあらわす。
御神体は寛政元年(1789)5月辻又七郎狛之澄作の銘を持つ。
山に飾る桜の造花は粽と同様に戸口に挿すと悪事が入ってこないといわれている。

[29番]南観音山
南観音山 南観音山
[新町通錦小路上ル]
下り観音山」ともいわれ、後祭巡行列の最後を行く曳山である。
華厳経の説話で、善財童子が順に教えられ南へ南へ53人の聖者を訪ねて菩薩道修業をした話は、東海道五十三次や指南の語源となるが、28番目の観音は美しい南海のほとりに住み、あらゆる苦悩から人々を救うことを教えたという。
本尊の楊柳観音像は、悠然と瞑想する鎌倉時代の座像であるが、天明の大火で頭胸部だけが残り、他は童子像とともに江戸時代の木彫彩色像。
諸病を防ぐといわれて巡行には柳の大枝を差し、山の四隅には菊竹梅蘭の木彫薬玉をつける。

[30番]鯉山
鯉山 鯉山
[室町通六角下ル]
山の上に大きな鯉が跳躍しており、龍門の滝をのぼる鯉の奔放な勇姿をあらわしている。
前面には朱塗鳥居をたて山の奥には朱塗の小祠を安置し素盞鳴尊を祀る。

[31番]八幡山
八幡山 八幡山
[新町通三条下ル]
町内に祀られている八幡宮を山の上に勧請したもので、常には町会所の庭にお宮を祀っている。

[32番]役行者山
役行者山 役行者山
[室町通三条上ル]
山の御神体として、役行者と一言主神と葛城神の三体を安置し、この組み合わせは役行者が一言主神を使って葛城と大峰の間に橋をかけたいという伝承を想起させる。
正面の洞に役行者が帽子・掛絡・経巻・錫杖を持って座し、葛城神は女体で手に台つきの輪宝を持ち、一言主神は鬼形で赤熊をかぶり手に斧を持っている。

[33番]大船鉾
[新町四条下ル四条町]
後祭の最後尾を飾っていた壮大な船型の鉾で「凱旋船鉾」とも呼ばれていたが、1864年(元治元年)の禁門の変による大火で神功皇后の御神体や懸装品を残して消失。
以後130年間御神体と懸装品を宵山に限って同鉾町内で展示する「居祭」を行ってきたが、1995年(平成7年)から中止。
1996年(平成8年)、岩戸山の指導により囃子を復活させ、2006年(平成18年)には御神体を除く懸装品を展示する「飾り席」を復活させた。
四条町大船鉾保存会では2011年から鉾の再建に取り掛かっており33基目の山鉾として焼失から150年に当たる2014年頃の完成・巡行復帰を目指し、2012年に「唐櫃巡行」として山鉾巡行に仮復活した。

→屏風絵等